“井戸神様の思いで”について考える
我が家にもわたしが高校生ぐらいまでは、井戸があり使用していた。近くに銭湯ができ、その水源として50メートル程の深い井戸が掘られた。その結果として、ご近所みんな水枯れの井戸に変わってしまった。そのときから我が家でも上水道のお世話になっている。
小さい頃の井戸の思い出として印象に残っていることは、二つある。一つは井戸神様の存在である。もう一つは夏休みに冷やしたスイカのおいしかった事だ。今回は井戸神様について考えてみることにした。
子供の頃、目にデキモノ(麦粒腫:ものもらい)ができたとき、竹製のザルを半分ほど井戸にかざし祈りを捧げた。「井戸神様、井戸神様、どうぞこのデキモノを治してください。治ったらお礼にざるのすべてをお見せしますと…」。すると2-3日経つと不思議と治り、約束のざるを見せてのお礼参りをした。
成長したあかつきには、こんなこと迷信であり何の医学的根拠もないことは、重々承知するのだが…。当時は、本当に井戸神様が治してくれたんだと信じきっていた。そんな純情で疑うことを知らなかった子供の頃がなつかしい。
今の子供たちは、そんなこと一笑に付すだろうな。でも、神を信じる信仰心?の大切さを昔の子供は持っていた。全てのことが理論と科学的な裏づけがなければ、信用できないといった考え方の今の子供は、可哀想な気がする。
鎖国政策をとっていた時代のキリシタン迫害を除けば、日本人は宗教に対する考えが寛大であるように思う。このことは異なる宗教や神の存在を互いに認め、尊重する姿勢にも通じ、すばらしいことだと考える。
裏を返した見方をすると、あまり宗教にはこだわらなく、困ったときだけすがるようだ。私はそれでいいと考える。
その証拠としては、結婚式はキリスト教のウエディング、葬式は、仏教、神式である。そして時には、自然の大木や山や岩にだって祈る。
そして万事休すの状態では、「神様、仏様、イエス様…」助けてくださいと何の違和感も持たず祈れることだ。それでいい。《これで祈りを聞き入れてくれない神や仏は、有り難くはない。身勝手な解釈でごめんなさい。》
そして、万物に神が宿ると考え自然へ畏敬の念をはらう姿勢は、日本人にやさしさと尊敬する心を育み、心豊かな人間形成につながっていると考える。宗教は心のよりどころであり、人間に生きる規範を教えてくれるものだと思う。
だから、あまり難しく考えずに井戸神様を信じようと考えた。
小さい頃の井戸の思い出として印象に残っていることは、二つある。一つは井戸神様の存在である。もう一つは夏休みに冷やしたスイカのおいしかった事だ。今回は井戸神様について考えてみることにした。
子供の頃、目にデキモノ(麦粒腫:ものもらい)ができたとき、竹製のザルを半分ほど井戸にかざし祈りを捧げた。「井戸神様、井戸神様、どうぞこのデキモノを治してください。治ったらお礼にざるのすべてをお見せしますと…」。すると2-3日経つと不思議と治り、約束のざるを見せてのお礼参りをした。
成長したあかつきには、こんなこと迷信であり何の医学的根拠もないことは、重々承知するのだが…。当時は、本当に井戸神様が治してくれたんだと信じきっていた。そんな純情で疑うことを知らなかった子供の頃がなつかしい。
今の子供たちは、そんなこと一笑に付すだろうな。でも、神を信じる信仰心?の大切さを昔の子供は持っていた。全てのことが理論と科学的な裏づけがなければ、信用できないといった考え方の今の子供は、可哀想な気がする。
鎖国政策をとっていた時代のキリシタン迫害を除けば、日本人は宗教に対する考えが寛大であるように思う。このことは異なる宗教や神の存在を互いに認め、尊重する姿勢にも通じ、すばらしいことだと考える。
裏を返した見方をすると、あまり宗教にはこだわらなく、困ったときだけすがるようだ。私はそれでいいと考える。
その証拠としては、結婚式はキリスト教のウエディング、葬式は、仏教、神式である。そして時には、自然の大木や山や岩にだって祈る。
そして万事休すの状態では、「神様、仏様、イエス様…」助けてくださいと何の違和感も持たず祈れることだ。それでいい。《これで祈りを聞き入れてくれない神や仏は、有り難くはない。身勝手な解釈でごめんなさい。》
そして、万物に神が宿ると考え自然へ畏敬の念をはらう姿勢は、日本人にやさしさと尊敬する心を育み、心豊かな人間形成につながっていると考える。宗教は心のよりどころであり、人間に生きる規範を教えてくれるものだと思う。
だから、あまり難しく考えずに井戸神様を信じようと考えた。
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